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残酷な世界を生き抜くには

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今週のお題「プレゼントしたい本」



「この世界が残酷だということを僕は知っていた。」

この暗い言葉から本書ははじまる。

日本には、大学を卒業したものの就職できず、派遣やアルバイトの仕事をしながら、ネットカフェでその日暮らしをつづける多くの若者たちや正社員になったものの、過労死寸前の激務とストレスでこころを病み、恋人や友人にも去られ、果てしない孤独に落ち込んでいく人もいる。

過酷な競争原理が支配する現代社会を生き抜くために、多くの人が自分の能力を高めようと書店の自己啓発書に手を伸ばしている。
そして、自己啓発書たちは「やればできる」と読者たちを鼓舞する。

知識社会では、勉強すればするほど幸福になれる⇒勉強できないのは努力する習慣がないからで、習慣はスポーツにおける仕組みのようなもので、スキルとして伝達可能だ⇒自分を勉強へと追い込むスキルを身につければ、誰でも努力を習慣化できる⇒努力が習慣化すれば、それが報酬を生んでますます努力するようになる。

というのが、「自己啓発の女王」の主張だ。


しかしもしこの前提が間違っていたら?
性格も能力も遺伝によって多くが決まるとしたら?
人間の価値は生まれ持って決まっていて平等では無いとしたら?

つまり、「やってもできない」としたら?

本書が提示する行動遺伝学のさまざまな研究成果は身体的特徴だけではなく知能や能力、性格なども遺伝し、適正に欠いた能力は開発できないことを裏付ける。

アメリカの認知心理学者で教育学の大家であるハワード・ガードナーのによれば、知能は身長や体重のように単純な検査で測定可能なものではなく、心はさまざまなモジュール(部品)が組み合わされてできていて、それぞれのパーツがお互いに影響し合っているという。

1.言語的知能:言葉への感受性。目標を達成する際に言語を用いる能力
2.論理数学的知能:問題を論理的に分析したり、数学的に処理する能力
3.音楽的知能:音楽的パターンを取り扱う能力
4.身体運動的知能:問題解決のために身体を使う能力
5.空間的知能:広い空間のパターンを認識して操作する能力
6.博物的知能:世界を分類して理解する能力
7.対人的知能:他人の意図や欲求を理解する能力
8.内省的知能:自分自身を理解し、自分の生活を効果的に統御する能力
9.実存的知能:宗教的・神秘的体験を位置づける能力→暫定的に提案されたもの

(本書より引用)


人には皆それぞれ得意なものと不得意なものがある。
問題なのは労働市場で高く評価される知能と、そうでない知能が存在することだ

僕たちは誰しも自分の労働力を労働市場に投資すること、すなわち働くことでお金を稼いで生きている。
労働市場という大きなマーケットがあって、会社や取引先や消費者が各自の資力や能力に応じてお金をやりとりしている。
しかしマーケットはいろんな知能を平等に扱うわけではない。

労働市場で評価される能力は言語的知能と論理数学的知能であり、これらの能力が高いひとはそこそこの能力であっても安定的に収入を得ることができる。
例えば、言語的知能や論理数学的知能や対人的知能は「論理的に思考できる人」「コミュニケーションを取りながらチームで仕事を進められる人」と見た目を変えて企業の採用ページに並んでいる。知識集約型が多い日本企業ではこれらの能力が高い人はそこそこの能力であっても重宝される。事実、企業の採用適性検査などはこれらの能力を問うものばかりだ。
一方で、音楽的知能のそこそこある人は、会社の同僚や友人とのカラオケで持て囃され、身体運動的知能は会社や大学のサークルなどで、活躍できるといった程度で、プロとして食べていけるのはほんの一握りの人間で、ずば抜けた才能が無い限り、それだけで生計を立てることはできない。

人には秀でている知能とそうでない知能があるのに、市場経済は、特定の知能だけを評価する。これでは格差社会になるのも当たり前で、これこそが「残酷な世界」の正体だ。

適性の無い能力が開発できないとするならば、どうすればこの残酷な世界を生き延びることができるのだろうか。

著者が提唱しているのは、「自分が得意なことを(好きなことを)して評判を獲得する」というもの。

子供は自分が所属する集団のなかで、他人よりもできると思ったものを無意識に選択し、自分の資源を集中投下する。そうやって目立つことで異性を獲得していく仕組みは、生物としての基本プログラムで、得意なものはどんどん能力が伸びていくので努力することもあまり苦にならないが、一方で不得意なものは頑張ってもあまり伸びない。
能力というのは、好きなことをやってみんなから評価され、人より目立つことでもっと好きになる、という循環のなかでもっとも開発される。

おそらくほとんどの人が幸福になるために生きているはずだけど、では幸福とはいったい何だろうか。
つまるところ幸福とは他者から承認されることで、あまり文明が発展していないマサイ族の幸福度が大富豪と同じくらい幸福なのは、家族や仲間との強い絆のなかで暮らしているからだそうだ。
人間ははるか昔から共同体に帰属していることが生きる術であるという環境で暮らしていたから、家族や仲間と共にいることに幸福を感じ、共同体から排除されることを恐れるように進化してきた。それは現代においても何ら変わっていない。
人は他者から承認されることで幸福に感じるよう進化してきた。人間に承認欲求があるのはそのためで、承認欲求を刺激するSNSが爆発的に普及したのもそのためだ。

「お金がどれだけあってもそれだけでは人は幸せにはなれない」っていうのは、お金が本当の意味での承認を齎さないからだろう。お金があれば不幸は防げるかもしれないけど、たぶん幸せにはなれない。例えばお金で自分の好きな異性を手にした時に、相手がなんで自分と一緒にいてくれるんだろうって考えた時に「お金があるから一緒にいてくれてるんだ」っていうのが分かったらやっぱり萎えてしまう。お金で快楽は買えても、やはり承認による幸福は買えない。

ネットインフラが整って誰もが簡単かつ安価にインターネットにアクセスできるようになったことで、自分の得意なことや好きなことをやって評価(評判・承認)を集めることが容易になった。
インターネットの世界は、時間にとらわれず「個人」と「不特定多数の他人」を繋ぐので、一部のyoutuberなどを見ればわかるように、成功すれば青天井でとてつもない報酬をもたらす。でも、当然すべての人が成功できるはずがなく、多くの人が鳴かず飛ばずで終わるのかもしれない。ただ、成功できるかはわからないけど、少なくとも挑戦しつづけることはできるし、それが残酷な世界で生きるための「希望」ともいえる。

僕たちは皆、人的資本を労働市場に投資して利潤(報酬)を得ている。
人的資本から得られる利益は、投資と同様に、元本とリスクの大きさで決まる。人的資本をたくさん持っている人は、小さなリスク(企業の会社員や公務員になること)でも十分な利益をあげることができる。逆に人的資本が小さければ(言語的知能や論理数学的知能に恵まれていなければ)、大金を稼ぐには大きなリスクを取るしかない。つまり本書で語られている、ネガティブな評価を払拭することが困難な会社員の世界(伽藍の世界)を捨て、ポジティブな評価だけが意味を持つバザールに出るということだ。
そこで誰もが思うのが、「結局それで食べていけるの?」ってことで、評価がお金とどう結びつくのかって話だと思う。僕にはせいぜい広告収入を得ることくらいしか思いつかないけど、個人的には、たとえ金銭的に成功できなくても、他者から承認されることが生きていく上で心の支えになるというか、他者による承認があるから人は生きていけるのではないかという気がしている。残酷な世界を生き抜くのに最も現実的なのは、最低限暮らせるだけのお金を稼ぎつつ、インターネットで好きなことや得意なことで他者からの承認を得ることで幸福になることなのかもしれない。

あとがきでは「ここまでぼくの話を聞いてくれたのだから、君はぼくに似ているのだ」と締めてある。著者と僕が共通するのはおそらく「私を変えることはできない」という無力感と不全感なのだろう。